遠笛

左官−挾土秀平のブログ
師からの手紙 7 【左官の終り】



秀平へ


左官の時代は終った。

かつて、日本の歴史の中で、左官の時代が三度あった。
一度目は、奈良時代。
大陸から半島を通って、仏教とともに漆喰が伝来したとき。

寺院建築の内部の壁画の下地に
平らな漆喰の壁が塗られ、
塔や本堂の外壁に、漆喰の白が塗られた。


縄文、弥生と、いままで
列島の山野に埋もれていた草と木の伏屋から
漆喰の白壁が立ちあらわれ、そこに風景が誕生したのだ。



二度目は、中世の終わり。

戦国の安土・桃山の時代に千利休が
草庵の茶室を都市の中にデザインした時だ。


書院から独立した草庵の
茶室の壁に田舎の伏屋の荒かべを塗ることで

左官の壁を、
美と精神の表現の対象としたことによって、
それより左官が塗った土の壁は
聚楽京壁となり、

床の間の壁として格別なもの、時代の文化を担うものになった。




三度目は江戸末期。


開国と維新の時代、
ヨーロッパ近代の文化とともに
西洋建築がデザイン、材料、技法と、
ともども輸入され、学習され、


都市建築として開かれ始めたとき。


洋風建築の仕上げの人造石塗り等々、
漆喰装飾も左官の仕事が建築の見栄(みばえ)を左右し、
都市の風景となった時代、


そして洋風建築の移入に、
土蔵を活性化し、左官が都市の風景をつくっていった。



いわば、その三ツの時代、

左官の時代を取り結び、
左官の壁が時代の用と美となって
生きていた時代といってよい。



それ以来、左官の時代は終った。



戦後、広島、長崎、原爆、敗戦、
東京オリンピック以降の高度成長、建築生産の工業化、

建材の工業商品化、建築現場からの手仕事の排除。
壁の湿式から乾式へ、左官塗りの下地化、

左官仕事のシャドウワーク化、
化粧仕上の終減・・・



時代は左官の壁を見捨てたのだ。



左官の壁に、
一部の好事家の趣味の対象か、
建築文化遺産としてしか残らなくなってしまった
というのが現状なのだ。


まさに、遺産なのであった。
遺産とは、ただ残っているだけで
時代を動かしているものではない。


左官は終ったのだ。



左官がもういちど
時代の表に立つことがあるか私にはわからない。


現代という酷薄な時代は、
ますます高度情報化し規格画一化して、
ただ完全な管理だけが優占する社会で、

手仕事の左官が
産業遺産ではなく、好事家の趣味の対象でもなく、
下地屋のシャドウワークでもなく

生き残ることが出来ようか_。



そうした困難な状況の中で
秀平が、かっての左官の時代を夢み、
のたうちまわっているのが痛いほどわかる。


いま時代を動かしているもの、
映画であれ、演劇であれ、
美術であれ、映像であれ、文学であれ、
それらの先端とコラボレーションしながら、


最後の左官として、

奈良時代から始まった
左官の歴史を一身の中に
演出していることが痛いほどわかる。



たぶん、利休が田舎の伏屋、
草屋(そうおく)におのれの茶道を封じこめたように、

秀平も左官の歴史を
飛騨の歓待の西洋館に封じ込めて終わるのだ。



茶道が利休ではじまり、
利休で終わったように、

左官も秀平で終わった、
いや、終わるのだと私は思う。



時は移り、物事は終わるのだ。


いまは、そんな事しか言えない。



草々急々。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


師は40年、50年、深く左官を愛し、
誰より左官を考えて来た人である。


師が左官の時代は終わったと言う
師は自分に、行き行きて行き行けと言う。


仲間を想うこともなく
前々から料理に興味があったので、
仕事はしますが、早上がりしてバイトに行かせて下さい。
それのどこが悪いんですか
自己主義のみで蓄積をゴミにして去った者がいた。



職人とは、
1000年という線の延長線で常に
義理や人情や、恩や粋を思う、頑なな背景に
技能の美を生み出していた。




自分は、そこにこそ魅力を感じてきた。




でも、そんなことに
もはや意味はないと言う時代ならば



俺はもう、
自分を突き詰め
苦しめる必要もないと言うことだろうか。


今、師は、
俺にその事を、言おうとしたのだろうか。











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