遠笛

左官−挾土秀平のブログ
場所という直感




それは、
《ひとりひとりの感性と、ひとつひとつの素材》から
《ひとつに繋がった集団》となった。


その集団は、物を作り続けるグループというだけでなく
その集団という《サイト、場所》に変わりうるんじゃないか



物を作る以上に、
その場所は、強い発信力を持てるのではないか。


未来からの使者(蝶)は、
俺達に、《ここにしかない場所》という意味を伝えようとしているのか

つまり、
技能や感性を≪場所≫と考える。
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前回、未来からの使者というブログを、こう締めくくってから。

技能や感性を≪場所≫と考える・・・・
そうだ、場所だ、
場所を存在させる、場所を生み出す。
場所、場所だ。

頭の中が場所場所している。


そのうちに、昔の小林さんの文章が浮かんできた。 

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【 琵琶湖のほとりで 】・・・小林澄夫



悲しみの器。

人間は悲しみの器であるという
言葉をいったのは
蓮如だったか、
親鸞だったか、
それとも、もともと弥陀の言葉であったのか知らない。


誰が云ったにしろ、
悲しみの器という言葉は私の魂を撃つ。


器とは、
皿にあれ、ツボにあれ、カメにあれ、
盆にあれ、なにかを盛ったり入れたりするもので、
それ自身は空虚なものであるといってよい。


そうであるとしたら、

人間が悲しみの器ということは、
人間は悲しみをたたえた器ということであろうか。


それとも

際限もなく
悲しみをたたえることの出来る器ということであろうか。

あの人間は器が大きいという。
また、器量があるともいう。


たぶん器とは、
悲しみの容量のことを、
浄土真宗風にいえば慈悲の深さをいうのであろう。


それゆえに、
器は器をつくっているそのフォルムや質よりも
その器の抱えている
空っぽなウツロの大きさが大切なのだと・・・。


私は別に浄土真宗の門徒でもないが、
こんなことを考えたのは、たまたま近江の守山の左官を訪ね、
北国街道の古い街である守山を案内してもらっていて、
守山が浄土真宗を教団として確立した
蓮如のゆかりの地であることを知ったからというにすぎない。



滋賀県は昔より白土の産地として有名であり、
その白土を使った大津壁という、
滋賀の地名のついた塗り壁がある。

いま忘れられようとしている
この大津壁を地元から見直し、
後世に技術を伝え大津壁を復活することが、
滋賀の風景を日本一美しいものにするのだと。


そう、まさに
≪びわ湖≫こそが悲しみの器であろう。


古代の中世の近代の日本人の歴史をのみこみ、
地質学的な遠い昔の古琵琶湖層から採った粘土で、
焼物を焼き、瓦を焼き、田ん圃をつくり、
壁を塗り、びわ湖の貝で貝灰を焼き、
白壁を塗り、すまいをつくって来たのだとしたら、


びわ湖は、

びわ湖のほとりに棲んだ者の
悲しみと喜びすべてをたたえた、悲しみの器であろうではないか。


≪悲しみの器≫、

際限もなく
悲しみをたたえることの出来る器としてのびわ湖は、
びわこのほとりに棲む者の心でもある。


際限もなく
悲しみを受け入れることの出来る心とは、
人間の私意でもなく、
我意でもなく、
びわ湖の泥や水や岸辺の葦や田ん圃や野や山や森や・・・


そこに棲む、
すべての生命の悲しみを感受する心のことであろう。


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つまり、これも場所の事を言っているんだろうなと
これを、何度か読み返していた。


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話は変わって
数日前、
編集工学者、【知の巨人】と呼ばれる松岡正剛さんが
自分を訪ねて来てくれていた。

去年の12月、
そして数日前と二度目の訪問がとても嬉しく、
なにか、新しい、自分らしい展開も含めて
自分の持てるものをすべて見てもらった。


そんな中で、今日

松岡正剛の千夜千冊の、0010夜に
≪内なる神≫=場所論というものがあることを知った。

さらりと読んでみたが、あまりよく分からない


けれど

書かれてある言葉を取り出すと・・・

場所の永遠性、連続性と複雑性
人間の精神、生態学や環境学、

場所論とは、
「人間の生きる風土」「生きている場所」そこにある
「内なる神」としてのインスピレーションが潜在し


それを取り出すことが人間の精神の力であり、
それは場所の精神であること
産業社会や工業社会が内なる神を失いつつある
未来に対する創造性を期待するなら
経済の発展と技術の革新に目を集中させない事。


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何だか話が難しくてわからないが

とにかく
色々様々、直感的に共通している、
何か場所に通じている。

技能や感性を≪場所≫と考える。
それは人が、やがて場所になってゆくこと。


今、自分は、
たぶんそれを無意識に目指している
自分を高めて行くというより

自分であることを
場所に浸み込ませてゆくことが、たぶん未来に繋がると。
それが場所の永遠性、連続性と複雑性となって
一個人、を超えてゆく・・・

人間の私意でもなく、
我意でもない
泥や水や岸辺の葦や田ん圃や野や山や森


また、解らなくなってきたが・・・・

ただ今、場所という直感があること
それを進めて行くことへの、腑におちる直感があることで

この先も諦めず、
このまま進んで行く為の、
安堵感をもらったような気がしている。


そして三度、
松岡正剛さんを招いて
俺たちの場所の、内なる神について学習し

俺たちの未来を実現したい。





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